はじめに|「間違えた」のではない。「説明しなかった」のだ
コロナ禍を振り返ったとき、多くの人はこう思っている。
「あの時、メディアは嘘をついたのか?」
だが、もっと正確な表現がある。
嘘をついたのではない。
説明できなくなったのだ。
そして、
説明できなくなった“構造”そのものが問題だった。
この記事では、
- なぜメディアは説明を更新できなかったのか
- なぜ「当時は正しかった」が言えなかったのか
- なぜ疑問を持つ人が“敵”になったのか
を、感情論ではなく構造で暴く。
第1章|日本のメディアは「間違えること」が許されない
まず前提を確認しよう。
■ 日本メディアの最大の弱点
それは、
「過去の報道を否定できない」
という体質だ。
欧米メディアでは、
- 「当時はこう考えたが、今は違う」
- 「新しいデータで見解を修正する」
これは普通だ。
だが日本では違う。
- 修正 = 責任追及
- 修正 = 謝罪会見
- 修正 = バッシング
この恐怖が、
「何も言わない」という選択を生む。
第2章|「当時は正しかった」が言えない国
本来、こう言えば済んだ話だった。
「当時は医療崩壊の危機があり、
今よりも不確実性が高かった。
だから強いメッセージを出した。
だが前提は変わった。」
しかし日本のメディアは、
この“当たり前の説明”ができなかった。
なぜか?
👉 「当時の自分たちを否定することになるから」
第3章|専門家を“道具”にした報道の限界
コロナ報道では、
- 医師
- 大学教授
- 感染症専門家
が、連日テレビに登場した。
だが、ここに致命的な問題があった。
■ 専門家は「条件付きの話」をしていた
多くの専門家は、実際にはこう言っていた。
- 「現時点では」
- 「仮にこのまま増えれば」
- 「最悪の場合」
だがメディアは、
「打たないと危険」
「全員が打つべき」
という断定形に変換した。
■ 専門家が“逃げ”、メディアが“黙る”構造
時間が経ち、
- 感染予防効果が低下
- 変異株で前提変更
が起きたとき、
- 専門家は
→ 「私はそんな断定はしていない」 - メディアは
→ 「専門家が言っていた」
👉 責任の押し付け合い
この時点で、
誰も説明役を引き受けなくなった。
第4章|「恐怖」を煽る方が、数字より簡単だった
冷静な説明より、
- 毎日の感染者数カウント
- 重症者数の赤文字
- 「第◯波が来た!」
これらの方が
視聴率を取れる。
そして、恐怖を煽る報道には
“修正”が必要ない。
なぜなら、
「危険だ」と言い続ける限り、
後で検証しなくていいから。
第5章|疑問を持つ人を「敵」にした瞬間、説明は終わった
コロナ報道で最も致命的だったのは、ここだ。
■ 疑問 = 非国民
- 「若者も毎回必要?」
- 「副反応は?」
- 「データは?」
これらの問いが、
- 反ワク
- 陰謀論
- 危険思想
というラベルで処理された。
👉 議論を止めた瞬間、説明責任は消えた。
第6章|なぜ「超過死亡」を正面から扱えなかったのか
超過死亡は、
最も都合が悪い指標だった。
理由は明確だ。
- ワクチン接種後に増えた
- だが原因を単純化できない
- 誰も断定できない
つまり、
報道向きではない。
白か黒か言えない話は、
テレビでは扱いづらい。
結果、
- 一部の専門誌
- 海外論文
- ネットメディア
にしか出てこなかった。
第7章|「沈黙」は中立ではない
メディアはよくこう言う。
「慎重に扱っている」
だが実際は違う。
語らないことは、
“これまでの物語を守る行為”だ。
説明しなかったことで、
- 国民は置き去りにされた
- 不信感だけが残った
- 極端な意見が増えた
これは報道の失敗だ。
第8章|海外メディアとの決定的な違い
海外では、
- 「過剰だったかもしれない」
- 「若年層には限定的だった」
- 「政策判断としては理解できるが…」
こうした検証記事が出ている。
日本では?
👉 ほぼ出ていない。
理由は一つ。
検証=自己否定になるから
第9章|メディアが本当に恐れていたもの
それは、
- 国民の反発
- 政治的圧力
- スポンサー
- SNS炎上
ではない。
一番怖かったのは、
「あの時、煽ったのは間違いだった」と
自分たちが認めること
第10章|では、なぜ今も説明できないのか
答えは単純だ。
- 説明すると
- 誰かが責任を取らされる
- だから沈黙する
しかしその沈黙は、
「信頼」を切り売りしている
結論|メディアは嘘をついたのではない。役割を放棄した。
- 嘘はついていない
- だが説明を更新しなかった
- そして検証もしなかった
結果、
「次に同じことが起きたら、
また同じ失敗をする」
読者への最後の問い
次に危機が来たとき、
あなたはどうするだろうか。
- テレビが言うから信じるか
- SNSを信じるか
それとも、
「数字を見て、自分で考える」か




コメント