皆さんは将棋の棋士と言えばどんな先生が浮かびますか?これまで羽生善治先生や加藤一二三先生などいろいろな棋士をご紹介してきましたが、今回は昭和から平成にかけて将棋界を熱くした大棋士、**米長邦雄(よねなが くにお)**先生をご紹介したいと思います。
昭和の棋士は平成以降の棋士に比べると、将棋そのもの以外の逸話が非常に多い方が多い印象があります。米長先生はまさにその代表格。史上最年長での名人獲得という輝かしい記録を持つ一方で、全裸で連盟内を疾走したなど、なんとも人間味あふれる(?)エピソードの持ち主でもあります。
今回はそんな米長邦雄先生の経歴、将棋界での偉業、そして数々の伝説エピソードや名言まで、たっぷりとご紹介していきます。将棋にあまり詳しくない方でも楽しめるように、できるだけわかりやすく解説していきますので、最後までお付き合いください。
目次
- 米長邦雄とは?プロフィールまとめ
- 生い立ちとプロ入りまでの道のり
- 中原誠との死闘「中原・米長時代」
- 1985年、史上3人目の四冠王達成
- 悲願の名人獲得、そして史上最年長記録
- 引退後の活動と日本将棋連盟会長時代
- 71歳にしてコンピュータ将棋に挑む
- 米長邦雄の伝説的エピソード集
- 米長邦雄の珠玉の名言集
- 闘病、そして最期の言葉
- まとめ
1. 米長邦雄とは?プロフィールまとめ
まずは米長邦雄先生がどんな人物だったのか、基本プロフィールから見ていきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1943年6月10日、山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)生まれ |
| 没年月日 | 2012年12月18日、前立腺がんのため死去(享年69) |
| 師匠 | 佐瀬勇次名誉九段 |
| 棋士番号 | 85 |
| タイトル獲得数 | 棋聖位7期、名人位1期を含む通算19期(歴代6位) |
| 一般棋戦優勝 | 16回 |
| 永世称号 | 永世棋聖 |
| 通算成績 | 1904戦1103勝800敗1持将棋 |
| 引退 | 2003年12月 |
| 連盟会長 | 2005年〜2012年(日本将棋連盟会長) |
| 受章 | 2003年11月 紫綬褒章、2013年1月 旭日小綬章(没後) |
| 趣味 | 囲碁(囲碁八段) |
米長先生は1963年にプロ棋士となり、現役時の通算成績は1103勝800敗1持将棋という輝かしい記録を残しています。中央大学を中退してプロの世界に飛び込んだという経歴も特徴的です。

将棋ファンの間では、切れ味鋭い終盤の勝負手から「泥沼流」、そして本人のさっぱりした人柄から「さわやか流」と呼ばれ親しまれていました。ちなみに本人は「さわやか流」の呼び名の方を好んでいたそうです。人間味あふれる、なんとも愛されキャラだったことが伝わってきますね。
2. 生い立ちとプロ入りまでの道のり
米長邦雄先生は山梨県のご出身。3人のお兄さんがいて、全員が東京大学に進学したという、非常に優秀な家系に生まれました。しかし米長少年は将棋の道を選びます。
子供の頃から将棋の才能は圧倒的で、小学3年生の時点で上のお兄さんたちはもちろん、大人にすら将棋で勝てる者がいなくなっていたというから驚きです。この当時、まだ子供だった米長少年を見たプロ棋士の佐瀬勇次先生は、「名人になれるかはわかりませんが、八段にはなれます」と評したというエピソードが残っています。
この言葉がきっかけとなり、米長少年は佐瀬勇次門下に入門することになります。1956年、6級で佐瀬勇次名誉九段の門下となり、そこから研鑽を重ねていきました。
そして1963年にプロデビューを果たします。中央大学在学中でしたが、将棋の道に専念するため中退。プロの世界に完全に身を投じることになりました。
デビューから順調に力をつけていった米長先生でしたが、初タイトル獲得までは10年の歳月を要しました。デビューからちょうど10年後の1973年、第22期棋聖戦で有終の美を飾り、初タイトルを獲得。ここから米長先生の本格的な黄金期が始まっていきます。
当時の将棋界は大山康晴十五世名人が五大タイトルを独占するほどの絶対的な存在感を放っていた時代でした。そんな中で新たな才能として頭角を現してきたのが、米長邦雄という若き棋士だったのです。
3. 中原誠との死闘「中原・米長時代」
米長先生を語る上で絶対に外せないのが、ライバル・中原誠十六世名人との関係です。
「棋界の若き太陽」と称された中原誠先生と米長先生は、まさに同世代を代表するライバル同士でした。米長は中原と187局にも及ぶ死闘を繰り広げることとなり、この中原・米長という対戦カードは現在に至るまで、対局数が最も多い対戦カードとなっています(ちなみに2位は羽生善治先生と谷川浩司先生の168局とのことです)。
これほどまでに数多く戦った2人だからこそ、大山康晴・升田幸三の時代の後、羽生善治世代が台頭する以前の将棋界は「中原・米長時代」と呼ばれるようになりました。それほどまでに、この2人の存在は将棋界において絶対的なものだったのです。
タイトル戦では、なかなか中原先生の壁を破れない時期が長く続きました。米長先生にとって中原先生との対戦成績は80勝106敗1持将棋と、通算では分が悪かったことが分かります。それでも諦めずに挑み続け、幾度となく激闘を繰り広げたのです。

特に印象的なのが1979年の第37期名人戦。開幕2連勝という好スタートを切り、2勝1敗とリードした状態で迎えた第4局。勝ちが見えていた局面から、中原先生の「▲5七銀」という歴史的な絶妙手を喰らって形勢が逆転してしまいます。この一手は「升田の△3五銀」と並んで語り継がれる昭和将棋の名場面の一つとされています。悔しくもこの敗戦のダメージは大きく、翌年の名人戦では1勝4敗で完敗を喫することになりました。
このような苦い経験を何度も味わいながらも、米長先生は決して諦めず、後述する通り最終的には悲願の名人位を手にすることになります。まさに執念の棋士人生と言えるでしょう。
4. 1985年、史上3人目の四冠王達成
中原先生との激闘を経て、米長先生は着実に実力をつけていきます。そして迎えた1985年、米長将棋人生の絶頂期が訪れます。
1985年には棋聖、十段、棋王、王将のタイトル4つを独占し、史上3人目の四冠王となったのです。当時の将棋界には7大タイトルが存在していましたが、その過半数を米長先生が手中に収めていたことになります。まさに向かうところ敵なしの状態でした。
米長より前に四冠を達成していたのは大山康晴先生と中原誠先生のみで、後に谷川浩司先生や羽生善治先生も四冠を達成しています。米長先生はこの偉大な系譜に名を連ねる棋士の一人となったわけです。
四冠王誕生は当時の将棋メディアでも大きく報じられ、まさに米長邦雄の絶頂期を象徴する出来事となりました。
王将戦での「横歩取り」挑発事件
この時期の米長先生を語るエピソードとして有名なのが、王将戦での「横歩取り」を巡る挑発です。横歩取り戦法が流行していた頃、1989年度の第39期王将戦で挑戦者となった際、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、当時の王将だった南芳一先生を挑発しました。
このとき米長先生は、弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南先生への対策を教わったと自身の著書で明かしています。結果、南先生は対局で横歩を取り、この七番勝負は1勝3敗から3連勝しての大逆転で米長先生が王将位を奪取しました。<cite 2026年時点でも、1勝(もしくは0勝)3敗からの逆転劇は7例ありますが、挑戦者側が逆転を果たしたのはこれが史上唯一の例です。
まさに勝負師・米長邦雄の面目躍如といったエピソードですね。ただし翌年の防衛戦では南先生にリベンジされ、タイトルを明け渡すことになりました。
5. 悲願の名人獲得、そして史上最年長記録
数々のタイトルを獲得してきた米長先生でしたが、将棋界最高峰のタイトルである「名人位」だけは、長年にわたって手が届きませんでした。中原先生との名人戦は通算6度目を数えていましたが、いずれも敗退。年齢を重ねるごとに、タイトル挑戦の機会自体も徐々に減っていきます。
そして迎えた1993年、第51期名人戦。当時49歳だった米長先生は、もしかしたらこれが最後の名人挑戦になるかもしれないという覚悟で臨んだと言われています。相手は宿命のライバル、中原誠名人。名人戦七番勝負としては、これが7度目の対戦となりました。
結果は――米長邦雄九段が中原誠名人を4連勝のストレートで破り、悲願の名人位を獲得49歳11か月での獲得、そして50歳での在位という「50歳名人」の記録は、2022年度名人戦終了時点でも史上最年長記録として残っています。

この名人獲得がいかに大きな出来事だったかは、就位式の規模からも窺い知ることができます。新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2,000人を超える異例の人数の参加がありました。将棋界における米長邦雄という存在の大きさを物語るエピソードです。
そしてこのパーティーの席上で、米長先生は後に将棋界の頂点に立つことになる、ある若き棋士について予言めいたスピーチを残しています。会場には新たにA級に昇級した羽生善治先生もおり、席上で米長は羽生を指して「私個人のことになりますけれども、来年アレが出てくるのではあるまいか」とスピーチしました。
そしてこの予言は的中します。翌年の第52期名人戦では、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生善治先生に2勝4敗で敗れ、防衛に失敗してしまいました。時代はまさに「中原・米長時代」から「羽生世代」へと移り変わっていく、その転換点に米長先生は立っていたのです。これ以降は各棋戦の本戦に顔を見せることはあっても、タイトルを獲得することはなく、挑戦者になることもありませんでした。
栄光の絶頂と、新時代の到来。米長先生の名人獲得と防衛失敗のドラマは、将棋界の世代交代を象徴する出来事として、今なお語り継がれています。
6. 引退後の活動と日本将棋連盟会長時代
現役を長く続けた米長先生でしたが、2003年12月に引退を表明します。しかし引退後も将棋界への貢献は止まりませんでした。
引退から2年後の2005年、米長先生は日本将棋連盟会長に就任します。前会長の中原誠先生から会長職を引き継ぐ形での就任でした。以降、2012年に亡くなるまで、実に7年間にわたって会長職を務め上げました。
会長としての功績は多岐にわたります。
- アマチュアのプロ棋士参入条件の整備
- 女流棋戦の新設
- ネット棋戦の新設
- 日本将棋連盟の公益社団法人化
- ニコニコ動画との連携強化
特に注目すべきはニコニコ動画との連携に積極的だった点で、新聞社がスポンサーを務めるタイトル戦のニコニコ生放送での中継をいち早く実現しました。まだインターネット中継が一般的でなかった時代に、いち早くネットとの融合を図った先見性は特筆すべき功績と言えるでしょう。
また将棋界の外でも活躍しており、1999年から8年間、東京都教育委員を務めました。教育分野にも強い関心を持っていたことが分かります。晩年には北陸先端科学技術大学院大学の特任教授にも就任するなど、将棋界の枠を超えて幅広く活動していました。
こうした功績が評価され、2003年には紫綬褒章を受章。そして没後の2013年1月には旭日小綬章を授与されています。

現役時代の輝かしい実績もさることながら、引退後もこれだけ精力的に将棋界の発展に尽くしたというのは、本当に頭が下がる思いです。まさに一生涯を将棋に捧げた人生だったと言えますね。
7. 71歳にしてコンピュータ将棋に挑む
米長先生の晩年を語る上で欠かせないのが、コンピュータ将棋との対局です。
現役を退いて長い年月が経っていたにもかかわらず、2012年1月にはコンピューターソフト「ボンクラーズ」と対戦しました。これは「電王戦」と呼ばれる、プロ棋士とコンピュータ将棋ソフトが戦う一連の企画の一環として行われたものです。
結果は非常に大きな話題を呼びました。この対局で米長先生は、名人経験者として初めて公の場でコンピューターに敗れることになったのです。当時、コンピュータ将棋がプロ棋士にどこまで通用するのかは大きな注目を集めていましたが、名人経験者の敗北は将棋界に衝撃を与えました。
日本将棋連盟会長という立場でありながら、自ら先陣を切ってコンピュータとの対局に臨んだ姿勢には、将棋界の未来を見据えた強い覚悟があったのではないでしょうか。この電王戦をきっかけに、コンピュータ将棋と人間の関係性についての議論が一気に活発化していくことになります。実際、米長先生自身も対局後にこの経験を著書にまとめており、その中で率直な思いを綴っています。
先ほどご紹介したプロフィール欄にもある通り、米長先生の著書には「われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る」という一冊があります。まさにこの電王戦での経験を赤裸々に語った内容となっており、将棋ファンはもちろん、AIやコンピュータ技術に興味のある方にもおすすめできる一冊です。
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8. 米長邦雄の伝説的エピソード集
さて、ここからは米長先生の人柄がよく分かる、数々の伝説的エピソードをご紹介していきます。昭和の棋士らしい豪快さとユーモアが詰まったエピソードばかりですので、ぜひ楽しんでいってください。
会長写真で一人だけダブルピース
日本将棋連盟の役員紹介ページの集合写真では、他の役員がみんな真面目な表情で写っている中、米長先生だけが一人ダブルピースでおどけた表情を見せていたというエピソードがあります。しかも当時は会長という立場だったというから、その自由奔放な人柄がよく伝わってきますね。
かつて大棋士・升田幸三先生からは「彼だけは会長にしてはいけない」と評されていたこともあったそうですが、それにもかかわらず米長先生は後に会長職を再任するまでに至りました。周囲の懸念をものともせず、自分らしいスタイルを貫き通した結果と言えるかもしれません。
初代竜王戦での「全裸疾走」事件
初代竜王のタイトルをかけた試合で、米長先生は島朗九段(当時)に4連敗という結果に終わってしまいます。この時、悔しさのあまり自室から大浴場まで「ギャオーー」と叫びながら全裸で疾走したというエピソードが伝えられています。
なんとも豪快すぎるエピソードですが、それだけ勝負に対する熱い思いと、負けん気の強さを持っていたということなのでしょう。
45歳、王将奪取祝賀会での裸踊り
45歳の時、南芳一先生から王将のタイトルを奪取した際の打ち上げでは、「まあ滅多に他人には見せないんですけど……」と前置きしつつ、弟子の先崎学先生(現九段)と共に歓喜の裸踊りを披露したというエピソードも有名です。目撃者からは「裸踊りで興奮している人を初めて見た」という、なんとも際どい感想も残されているとか。
谷川浩司先生との対局後、放尿未遂事件
A級順位戦で谷川浩司先生に完敗した際には、対局後「悔しい!」と叫びながら将棋会館4階から放尿を試みようとしたという、かなり衝撃的なエピソードも語り継がれています。幸い、心配した棋士仲間たちが体を張って制止したため未遂に終わったそうですが、それほどまでに勝負への執着と感情の激しさを持っていた人物だったことが伝わってきます。
読売新聞記者への痛快な切り返し
電王戦が話題になっていた頃、読売新聞の記者が「デンノウセン、デンオウセンどちらが正しい読み方ですか?」と質問したことがありました。これに対して当時会長だった米長先生は、「言葉を大事にする読売新聞ならではの質問だと思うのですが、将棋連盟というところは『どっちでもええやないか』という団体でございます」と回答したそうです。
真面目な質問に対してユーモアたっぷりに切り返すこのセンス、まさに米長先生らしいエピソードと言えるでしょう。会長という立場でありながら、堅苦しさを感じさせない親しみやすいキャラクターが際立つ一幕です。

いかがでしたでしょうか?将棋の実力はもちろん超一流だった米長先生ですが、こうしたエピソードを見ていると、本当に人間味にあふれた、愛すべきキャラクターの持ち主だったことがよく分かりますね。昭和の棋士らしい豪快さと、どこか憎めない愛嬌が同居した、唯一無二の存在だったのではないでしょうか。
9. 米長邦雄の珠玉の名言集
米長先生は勝負師としてだけでなく、数多くの含蓄のある名言を残したことでも知られています。ここでは特に印象的な言葉をいくつかご紹介します。
自分にとって関係ない試合でも、相手にとって非常に重要な勝負の場合がある。そういう時こそ、自分の力を出しきらなければいけない。
どんな対局であっても手を抜かず、常に全力を尽くすべきという、勝負師としての矜持が感じられる一言です。相手にとっての重みを想像する視点は、ビジネスや日常生活にも通じる考え方ではないでしょうか。
スランプへの対処法として、最も上策、極意ともいえるやり方は、『笑い』である。
深刻になりすぎず、笑いという力でスランプを乗り越えるという発想は、米長先生の飄々とした人柄そのものを表しているように感じます。真剣勝負の世界に生きながらも、ユーモアを忘れない姿勢が垣間見えますね。
死んだオヤジの棺の前では正座で、将棋盤の前ではあぐらというのはおかしい。
礼儀や姿勢に対する独特の哲学が感じられる言葉です。将棋という真剣勝負の場に臨む姿勢そのものへの強いこだわりが表れています。
早く強くなる勉強法と、力を持続する勉強法は、別ものです。
短期的な成長と、長期的に力を維持し続けることは全く別の努力が必要だという指摘です。これは将棋に限らず、あらゆる分野の学びや自己成長にも通じる非常に本質的な考え方だと思います。
いちばん得意な戦法をやらないで、不得手な戦法に取り組む。あるいは相手の得意に飛び込んで行って戦う。それができるかできないかがポイント。
自分の得意分野だけに頼らず、あえて苦手な領域に挑戦する。あるいは相手の土俵で真正面から勝負する。この姿勢こそが真の強さを生み出すという、米長先生の勝負哲学が凝縮された言葉です。
師匠の言葉には、すべて反発。
一見すると師匠への反抗のようにも聞こえますが、これは既存の枠組みに囚われず、自分自身の道を切り拓いていく強さを表した言葉とも解釈できます。師匠の教えをただ鵜呑みにするのではなく、自分自身の頭で考え抜く姿勢の表れなのかもしれません。
<!– word_balloon: 北村家パパ, icon_url=”【画像URL要提供】”, position=”left” –>
どの言葉も、単なる将棋の技術論にとどまらず、人生や仕事にも通じる深い含蓄がありますよね。破天荒なエピソードの数々とのギャップも含めて、米長邦雄という人物の魅力がより一層感じられるのではないでしょうか。
10. 闘病、そして最期の言葉
輝かしい実績と豪快なエピソードで彩られた米長先生の人生ですが、晩年は病との闘いでもありました。2008年に前立腺がんを患い、2009年1月には自身の公式ホームページでこれを公表しています。
闘病中も米長先生は変わらぬ精力的な姿勢を見せ続けました。会長職を続けながら、公式ホームページでは頻繁に日記を更新しており、その生きざまを発信し続けていたのです。
そして最後の更新となったのは、11月25日付けの「最後の時」、そして12月2日付けの「最後の時(2)」というタイトルの記事でした。その中で米長先生は次のような胸中を綴っています。
「最近、自分はいつ、どのような形で人生を投了することになるのか考えるようになりました。一日でも長く、大いに笑い、健康な日々を過ごしたいと願ってはいるのですが、いつかは必ずその日がやってくることも覚悟しておかねばならない」
将棋の対局における「投了」という言葉を、自らの人生の終わりになぞらえて表現するあたり、最後まで棋士としての誇りを持ち続けていたことが伝わってきます。
さらに米長先生はこうも綴っています。
「悟りを開いた高僧になった訳ではありませんが、『人生すべて感謝である』これが今の心境です。私はガンを患っていますが、これもことの成りゆきで、人生はなるようにしかならないのだと達観しております」
そして2012年12月18日、都内の病院にて前立腺がんのため69歳で逝去されました。将棋界に数々の伝説と功績を残し、そして数え切れないほどのファンに愛されたまま、その生涯に幕を下ろしたのです。
死後の功績も評価され、2013年1月には旭日小綬章が授与されています</cite>。晩年まで将棋界の発展に尽くし続けた姿勢は、多くの棋士やファンの心に強く刻まれています。
11. まとめ
今回は昭和から平成にかけて将棋界を彩った大棋士、米長邦雄先生についてご紹介してきました。
- 中原誠先生との187局に及ぶ死闘「中原・米長時代」
- 1985年、史上3人目の四冠王達成
- 1993年、49歳11か月での史上最年長名人獲得
- 引退後は日本将棋連盟会長として7年間、将棋界の発展に尽力
- 71歳を目前にコンピュータ将棋「ボンクラーズ」に挑戦
- 全裸疾走や裸踊りなど、数々の破天荒エピソード
- 人生哲学が詰まった珠玉の名言の数々
こうして振り返ってみると、米長邦雄先生はまさに実力と人間味を兼ね備えた、稀有な棋士だったことがよく分かります。個人的には米長先生をリアルタイムのテレビで見ることはできませんでしたが、YouTubeなどの動画を通じてその存在を知り、こんなにも凄い棋士がいたのかと素直に感動しました。
電王戦のような新しい取り組みに自ら挑戦したり、将棋の普及活動に貢献したりと、現役引退後も将棋界のために尽力し続けた米長先生。その生き様は、将棋ファンのみならず、多くの人にとって学びのある人生だったのではないでしょうか。少しでも皆様にこの魅力が伝われば嬉しいです。
それではまたー。
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