リンドン・B・ジョンソンとはどんな人?ケネディ暗殺から大統領就任、公民権法・ベトナム戦争まで人生を徹底解説

話題

はじめに|ケネディの後ろにいた「大柄な男性」は何者だったのか

1963年11月22日、アメリカ・テキサス州ダラス。ジョン・F・ケネディ大統領が銃撃され死亡するという世界を揺るがす事件が起きました。そのわずか数時間後、大統領専用機エアフォースワンの中で宣誓し、第36代アメリカ大統領となった人物がリンドン・ベインズ・ジョンソンです。名前より「LBJ」というイニシャルで呼ばれることも多い人物です。

日本ではケネディ、ニクソン、レーガンなどと比べると知名度がやや低いかもしれません。しかしアメリカ国内では、20世紀の社会制度を大きく変えた大統領の一人として非常に重要な存在です。

人種差別を禁止する公民権法。

黒人などへの投票妨害を禁止する投票権法。

高齢者向け公的医療保険メディケア。

低所得者向け医療支援メディケイド。

教育支援。

貧困対策。

環境保護。

現在のアメリカ社会を理解するうえで欠かせない制度の多くが、ジョンソン政権で成立しました。

しかし同じ人物がベトナム戦争を大幅に拡大します。

国内では貧困や差別をなくそうとしながら、国外では戦争を拡大して多数の犠牲者を生んだ。

その大きな矛盾こそ、リンドン・B・ジョンソンという人物を理解する最大のポイントです。

1908年8月27日、テキサスの貧しい農村に生まれる

リンドン・ベインズ・ジョンソンは1908年8月27日、アメリカ南部テキサス州ストーンウォール近郊で生まれました。父はサミュエル・イーリー・ジョンソン・ジュニア、母はレベッカ・ベインズ・ジョンソン。5人きょうだいの長男です。

現在、大統領と聞くと裕福な家庭で育ったエリートを想像するかもしれません。しかしジョンソンの幼少期はかなり違いました。

LBJ図書館によると、生家はペダーナレス川近くの小さな農家で、当時は電気も水道もありませんでした。テキサス・ヒルカントリーと呼ばれる厳しい土地で育ち、家計が苦しくなる経験もしています。

後に大統領となってから農村への電化、教育、貧困対策などへ強い関心を示した背景には、この少年時代の経験があったと考えられています。

父親は政治家だった

父サム・ジョンソンは農業を営む一方、テキサス州議会議員を務めた人物でした。

つまりLBJは幼いころから政治を身近に見ています。

父親の周囲には政治家や地域住民が集まり、

誰に頼むのか。

誰を説得するのか。

誰と協力するのか。

という政治の世界を自然に学びました。

後にジョンソンは「議会を動かす天才」と呼ばれるほど、人間関係と説得を巧みに利用する政治家になります。

その原点の一つが家庭環境だったのでしょう。

家計は決して安定していなかった

父親は土地投資などで失敗し、家族は経済的に苦しい時期を経験しました。

昨日まで余裕があったのに、

急に生活が苦しくなる。

この経験は少年ジョンソンに強烈な「貧困への恐怖」を残したとされています。

後に大統領として掲げる「War on Poverty(貧困との戦い)」を考えるとき、この幼少期は非常に重要です。

彼にとって貧困は統計ではありませんでした。

自分自身が身近に感じた問題だったのです。

若いころは決して模範的な学生ではなかった

後の大統領ですから、子どものころから超優秀なエリートだったと思うかもしれません。

しかし実際には必ずしもそうではありません。

高校卒業後すぐ大学へ進まず、カリフォルニアへ向かったり、さまざまな仕事を経験したりしています。

やがてサウスウェスト・テキサス州立教員大学へ進学。

そして人生観を変える経験をします。

貧しいメキシコ系児童を教えた経験

大学在学中、ジョンソンはテキサス南部コトゥーラにある学校で教師として働きました。

そこで教えたのは、貧しいメキシコ系アメリカ人の子どもたちでした。

子どもたちは家庭が貧しく、

十分な教育機会がない。

差別もある。

将来の選択肢も少ない。

ジョンソンはこの現実を目の当たりにします。

後に大統領になったジョンソンは教育政策へ非常に力を入れました。

なぜ教育なのか。

その原点の一つが、この教師時代にあります。

「生まれた家庭が貧しいだけで、子どもの未来が決まってはいけない」

という考えです。

政治の世界へ

大学卒業後、ジョンソンは教師を続けるのではなく政治の世界へ進みます。

1931年、テキサス州選出下院議員リチャード・クレバーグの秘書となりました。

ここでワシントン政治を徹底的に学びます。

議員本人よりも、

誰が権力を持っているか。

誰に電話すれば話が進むか。

どの議員とどの議員が仲が悪いか。

誰が何を欲しがっているか。

そうした「人間としての政治」を覚えました。

ジョンソンは政策知識だけでなく、人を読む能力が非常に高かったとされています。

1937年、28歳で下院議員へ

1937年、連邦下院議員選挙へ出馬。

当選します。

まだ28歳でした。

当時の大統領はFranklin D. Rooseveltです。

ジョンソンはルーズベルトのニューディール政策を支持しました。

世界恐慌後のアメリカで、

政府が公共事業。

雇用。

電化。

社会保障。

などへ積極的に関与する考え方です。

貧しい農村出身のジョンソンには非常に共感できる政策でした。

農村電化を進める

当時のアメリカでは都市部に電気が普及していても、地方では電気のない家庭が珍しくありませんでした。

ジョンソン自身も電気や水道のない家で生まれています。

だからこそ農村へ電力を届ける政策を強く支援しました。

現在ではスイッチを押せば電気がつくことは当たり前です。

しかし電化は、

夜に勉強できる。

冷蔵庫が使える。

農業機械が使える。

ラジオが聞ける。

生活そのものを変えます。

ジョンソンは「政府がインフラを整備することで、地方の人の人生を変えられる」という経験を政治家として積みました。

第二次世界大戦にも参加

1941年、日本による真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦へ参戦すると、ジョンソンも海軍予備役として軍務につきました。

太平洋地域での任務にも参加しています。

その後議会へ戻ります。

戦争経験を持つ政治家となったことは、後の外交政策にも影響します。

ただし皮肉なことに、後に自身の大統領職を大きく苦しめるのも戦争でした。

ベトナム戦争です。

上院議員へ

1948年、ジョンソンは連邦上院議員選挙へ出馬。

わずかな差で勝利しました。

この選挙には不正疑惑も付きまとい、彼の政治人生の論争点の一つになっています。

しかし当選後、ジョンソンは驚異的なスピードで上院内部の権力を獲得していきます。

「議会を動かす天才」LBJ

1950年代、ジョンソンは上院民主党院内総務となります。

ここで最大の武器となったのが、人を説得する能力です。

有名なのが、

「Johnson Treatment(ジョンソン・トリートメント)」

と呼ばれる説得方法です。

ジョンソンは身長190センチを超える大柄な人物でした。

相手へ非常に近づき、

顔を寄せ、

大きな声で話し、

肩をつかみ、

時には褒め、

時には脅し、

時にはお願いする。

相手が「分かった」と言うまで徹底的に説得したとされています。

写真を見ると本当に相手へ覆いかぶさるように話しています。

政治家というより、

猛烈な営業マン。

交渉人。

人間関係の達人。

に近い人物でした。

ケネディとは正反対の人物

1960年の大統領選挙。

民主党候補となったのがジョン・F・ケネディでした。

若い。

裕福。

洗練されている。

東部出身。

テレビ映えする。

一方ジョンソンは、

テキサス。

南部。

大柄。

議会政治のベテラン。

泥臭い。

二人はかなりタイプが違います。

しかしケネディは副大統領候補にジョンソンを選びました。

南部票を確保する狙いなどがあったと考えられています。

そして選挙に勝利。

1961年、ジョンソンは副大統領となりました。

副大統領時代は思うように力を発揮できなかった

上院では圧倒的な権力を持っていたジョンソン。

しかし副大統領になると状況が変わります。

アメリカの副大統領は、大統領ほど自由に政策を動かせません。

ケネディ政権の中心には、

若い側近。

知識人。

東部エリート。

が集まっていました。

泥臭い議会政治家ジョンソンは、居場所を見つけにくかったともいわれます。

「副大統領になればさらに権力を持てる」

と思ったかもしれません。

しかし実際には上院時代より影響力が小さくなった部分もありました。

人生は肩書が上がれば必ず幸せになるとは限りません。

1963年11月22日、すべてが変わる

テキサス州ダラス。

ケネディ大統領の車列へ銃弾が撃ち込まれます。

ケネディは死亡。

アメリカ中が混乱しました。

副大統領ジョンソンは突然、

アメリカ大統領

になります。

数時間前まで副大統領だった人物が、

核兵器を持つ超大国の最高責任者になる。

国家が混乱しないよう、すぐに権力移行を示す必要がありました。

エアフォースワンの中で大統領就任宣誓を行います。

横にはケネディ夫人ジャクリーン。

まだケネディの血が付いた服を着ていました。

アメリカ史でも最も衝撃的な大統領交代の一つです。

「ケネディの政策を完成させる」

ジョンソンには巨大な課題がありました。

国民はケネディの死を悲しんでいる。

自分は選挙で大統領になったわけではない。

政権内にはケネディの側近がいる。

そこでジョンソンは、

ケネディが進めていた政策を実現することこそ自分の使命だと訴えます。

特に重要だったのが公民権法です。

1964年公民権法

当時のアメリカ南部では人種差別が制度として残っていました。

レストラン。

ホテル。

学校。

職場。

公共施設。

黒人という理由で利用を拒否されたり、分離されたりすることがありました。

ケネディ政権は公民権法案を進めていましたが、成立前に大統領が暗殺されました。

ジョンソンは自身の議会経験を総動員して法案成立へ動きます。

そして1964年7月2日、

Civil Rights Act of 1964(1964年公民権法)

へ署名。

公共施設での差別を禁止し、学校などの人種統合を進め、雇用差別を違法とする歴史的法律となりました。

南部出身の政治家がなぜ公民権を進めたのか

ここが非常に興味深いところです。

ジョンソン自身がテキサス出身。

民主党の南部政治家でした。

当時、南部には人種隔離を支持する白人有権者も多数いました。

公民権政策を進めれば、

自分の党が南部票を失う可能性があります。

それでも進めました。

政治家は通常、

「次の選挙で得するか」

を考えます。

しかし歴史的には、

短期的に票を失っても必要な政策を実行する場面があります。

公民権法はその代表例でしょう。

1964年大統領選挙で圧勝

1964年、ジョンソンは共和党候補バリー・ゴールドウォーターと大統領選挙を戦います。

結果はジョンソンの圧勝。

ケネディ暗殺によって大統領になった人物から、

国民自身が選んだ大統領へ。

巨大な政治的権力を得ます。

そして自分自身の理想を実現しようとします。

「Great Society(偉大な社会)」

ジョンソンが掲げたのが、

Great Society

日本語では「偉大な社会」と訳されます。

単純に経済を成長させるだけではありません。

豊かなアメリカ社会の中に残っている、

貧困。

差別。

教育格差。

医療格差。

都市問題。

環境問題。

を政府の力で改善しようという巨大プロジェクトです。

「貧困との戦い」

ジョンソンは、

War on Poverty(貧困との戦い)

を宣言します。

世界最強の経済大国アメリカ。

しかし国内には大量の貧困層が存在していました。

ジョンソンは、

「豊かな国なのに、なぜ貧しい子どもが教育を受けられないのか」

と考えます。

幼少期の貧困。

教師時代に見たメキシコ系児童。

その経験が大統領政策へつながりました。

メディケアとメディケイド

1965年、現在まで続く重要制度が誕生します。

Medicare(メディケア)

主に高齢者向け公的医療保険。

Medicaid(メディケイド)

主に低所得者向け医療支援。

です。

アメリカは日本のような国民皆保険制度ではありません。

そのため高齢者や低所得者が医療へアクセスするための制度は非常に重要です。

60年以上経った現在でも、アメリカ政治で医療制度は大きなテーマです。

その中心制度の一部を作ったのがジョンソン政権でした。

教育への大型投資

元教師だったジョンソンは教育にも力を入れます。

貧しい地域の学校への支援。

大学進学支援。

幼児教育。

奨学金。

などを拡大しました。

ジョンソンにとって教育は、

「貧困から抜け出すための道具」

でした。

親が貧しくても、

良い教育を受ければ、

子どもには違う未来がある。

自分がコトゥーラで見た子どもたちに与えられなかった機会を、国家政策として提供しようとしたとも考えられます。

1965年投票権法

公民権法が成立しても大きな問題が残っていました。

黒人が投票できない。

法律上は投票権があっても、

識字テスト。

複雑な登録手続き。

脅迫。

暴力。

などによって事実上投票を妨害される地域がありました。

1965年、アラバマ州セルマで投票権を求めるデモ参加者が警察から暴力を受ける事件が全米へ報道されます。

ジョンソンは議会へ投票権法の成立を求めました。

そして1965年8月6日、

Voting Rights Act

へ署名。

識字テストなど差別的な投票妨害を禁止しました。

これはアメリカ民主主義の歴史でも非常に重要な法律です。

しかし大統領人生には巨大な「もう一つの顔」がある

ここまで読むと、

「ものすごく良い大統領だったのでは?」

と思うでしょう。

しかしジョンソン評価を決定的に難しくする問題があります。

ベトナム戦争です。

ベトナム戦争とは

第二次世界大戦後、

アメリカとソ連を中心とする冷戦が始まりました。

アメリカは、

「一つの国が共産主義化すると周辺国も次々共産主義になる」

というドミノ理論を警戒していました。

ベトナムでは、

共産主義勢力の北ベトナム。

アメリカが支援する南ベトナム。

が対立。

ケネディ政権時代からアメリカは南ベトナムを支援していました。

ジョンソンはこの戦争を大幅に拡大します。

トンキン湾事件

1964年、北ベトナム沖のトンキン湾で米海軍艦艇が攻撃されたとされる事件が発生。

議会はジョンソン大統領へ広範な軍事行動権限を与えます。

これを背景にアメリカの軍事介入は急速に拡大。

1965年以降、大規模な地上部隊が投入されます。

「負ける大統領」になりたくなかった

ジョンソン自身が戦争好きだったと単純に考えると人物像を見誤ります。

彼が恐れたのは、

「自分の時代に南ベトナムを共産主義へ渡した大統領」

と評価されることでした。

撤退すれば弱腰と批判される。

戦争を拡大すれば犠牲者が増える。

非常に難しい状況でした。

そしてジョンソンは、

撤退より拡大を選びました。

戦争が国内政策を壊していく

ジョンソンが本当に実現したかったのは「偉大な社会」だったともいわれます。

貧困対策。

教育。

医療。

人種差別解消。

しかしベトナム戦争へ大量のお金と政治エネルギーが投入されます。

戦争反対運動も拡大。

若者。

大学生。

知識人。

民主党支持者。

からも批判されるようになります。

国内を良くしたい大統領が、

国外の戦争によって国内を分断していく。

皮肉な展開でした。

テレビが戦争を家庭へ届けた

ベトナム戦争は「テレビ戦争」とも呼ばれます。

戦闘。

負傷者。

死者。

焼かれた村。

映像が家庭のテレビへ届きました。

政府は、

「戦争はうまくいっている」

と説明する。

しかしテレビを見ると、

どう見ても終わりそうにない。

国民の政府への不信感が高まります。

1968年テト攻勢

1968年、北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線側が大規模攻撃「テト攻勢」を実施。

軍事的にはアメリカ・南ベトナム側が撃退した面もありました。

しかし政治的には大打撃でした。

「勝利は近い」

と説明されていたのに、

敵はこれほど大規模な攻撃ができる。

国民は政府の説明を疑うようになります。

大統領選挙から撤退

1968年3月31日。

ジョンソンはテレビ演説で驚くべき発表をします。

次の大統領選挙で、

民主党の指名を求めない。

つまり事実上、

大統領再選を断念。

現職大統領が自ら再選を諦める。

それほどベトナム戦争による政治的ダメージは大きかったのです。

1969年退任

1969年1月。

ジョンソンは大統領を退任。

後任は共和党のリチャード・ニクソンでした。

ジョンソンは故郷テキサスの牧場へ戻ります。

大統領になったときは、

ケネディの死という国家的悲劇。

大統領を辞めるときは、

ベトナム戦争による深刻な分断。

非常に重い大統領人生でした。

晩年

退任後はテキサスで生活。

健康状態は悪化していました。

若いころから喫煙習慣があり、心臓病も抱えていました。

1973年1月22日。

心臓発作で死去。

64歳でした。

大統領退任からわずか4年後です。

LBJの人物像①ものすごくエネルギッシュ

ジョンソンはとにかくエネルギーの強い人物でした。

電話。

会議。

説得。

交渉。

深夜まで仕事。

人へ猛烈に働きかける。

現代なら「圧が強すぎる上司」と言われるかもしれません。

しかし議会で法律を成立させる能力は突出していました。

人物像②相手によって話し方を変える

理想論だけで人を説得しません。

この議員には、

「地元へ予算を持っていける」。

別の議員には、

「歴史に名前が残る」。

別の議員には、

「次の選挙で有利になる」。

相手が何を欲しいかを考えます。

ビジネスにも通じます。

自分が言いたいことだけ話すのではなく、

相手が何を求めているかを見る。

それが交渉力になります。

人物像③非常に粗野な一面もあった

ジョンソンは洗練された紳士タイプではありません。

下品な冗談。

威圧的な態度。

部下への強い要求。

などでも知られます。

そのため好き嫌いが大きく分かれる人物でした。

優しい人格者だから社会福祉政策を進めた、という単純な人物ではありません。

かなり複雑です。

興味深いエピソード|「ジョンソン・トリートメント」

最も有名なエピソードはやはり説得術です。

190センチを超える大男が相手へ数十センチまで近づき、

顔を見つめ、

延々と説得。

逃げようとしてもついてくる。

写真では相手が後ろへ反り返っていることさえあります。

これが、

Johnson Treatment。

法律を成立させるためなら、

電話。

食事。

廊下。

トイレ。

場所を選ばず説得したともいわれます。

成功理由①貧困を「自分事」として知っていた

ジョンソンの政策を見ると、

教育。

電化。

医療。

貧困対策。

が非常に多い。

理由の一つは、

自分自身が貧しい地方で育ったからでしょう。

机上の統計だけではありません。

「電気がない生活」

「家計が不安定になる怖さ」

を知っていました。

政治家にとって、

自分自身の経験を政策へ変えることは大きな強みになります。

成功理由②議会の仕組みを誰より理解した

大統領が、

「この法律を作りたい」

と言っても、

議会が賛成しなければ成立しません。

ジョンソンは下院。

上院。

院内総務。

副大統領。

大統領。

ほぼすべてを経験しました。

議員の気持ち。

議会手続き。

委員会。

党派関係。

誰より理解していました。

だから巨大な法案を次々成立させられたのです。

成功理由③「今しかない」を逃さなかった

ケネディ暗殺後、

国民には大きな悲しみがありました。

ジョンソンは、

「ケネディが残した仕事を完成させよう」

と議会へ訴えます。

公民権法を進める政治的タイミングを逃しませんでした。

良いアイデアでも、

タイミングを逃せば実現できません。

ジョンソンは政治的チャンスを見つける能力に優れていました。

最大の失敗|ベトナム戦争

一方、

最大の失敗として語られるのがベトナム戦争です。

最初から巨大戦争にしようと決めたわけではありません。

少し増派。

さらに増派。

空爆拡大。

さらに追加。

「あと少しやれば状況が良くなる」

という判断が積み重なります。

これは非常に重要な教訓です。

一度大きなお金や時間を使うと、

「ここでやめたら今までが無駄になる」

と考えます。

しかし、

過去に使ったコストと、

これから続けるべきか、

は別問題です。

現在でいう「サンクコスト」の問題にも似ています。

LBJから学べること①人を動かすには相手を知る

正しいことを言えば人が動く。

とは限りません。

相手には、

事情。

立場。

利益。

感情。

があります。

ジョンソンはそこを徹底的に理解しました。

仕事でも、

「これをやってください」

だけではなく、

「これをするとあなたにこういうメリットがあります」

と説明した方が動いてもらいやすい。

LBJの政治技術から学べる点です。

学べること②自分の経験は強みになる

貧しい地域出身。

教師経験。

地方政治。

すべて大統領政策につながりました。

若いころは、

「自分は都会のエリートではない」

というコンプレックスだったかもしれません。

しかしその経験が、

貧困。

教育。

地方。

を理解する強みになります。

自分の過去は、

後から武器になることがあります。

学べること③成功している人ほど失敗を止めにくい

議会政治では天才。

国内政策でも巨大な成果。

だからこそ、

「自分ならベトナムも何とかできる」

と思った可能性があります。

成功経験は自信になります。

しかし自信が強すぎると、

失敗を認めるのが遅れます。

これは経営でも投資でも同じです。

過去に成功した方法が、

次も正しいとは限りません。

公民権政策は現在まで残る

1964年公民権法は、人種などによる差別を禁止するアメリカ社会の基本的法律の一つです。国立公文書館は、公共施設での差別禁止、学校などの統合、雇用差別の違法化をもたらした、南北戦争後の再建期以来最も包括的な公民権立法だったと説明しています。

1965年投票権法も、黒人有権者を排除してきた識字テストなどを禁止しました。

60年以上経った現在でも、

選挙権。

人種差別。

投票制度。

はアメリカ政治の大きなテーマです。

ジョンソン時代は「昔の話」ではありません。

評価が非常に難しい大統領

歴代アメリカ大統領を、

良い大統領。

悪い大統領。

と簡単に分類すると、

ジョンソンは非常に困ります。

国内政策だけなら、

20世紀屈指の改革大統領。

公民権。

投票権。

医療。

教育。

貧困対策。

巨大な成果があります。

外交政策を見ると、

ベトナム戦争。

多数の死者。

社会分断。

政府への不信。

巨大な失敗があります。

同じ人間の中に、

歴史的成功。

歴史的失敗。

が同時に存在しています。

だからこそ学ぶ価値があります。

リンドン・B・ジョンソン最大の功績とは

最大の功績を一つ選ぶなら、

「アメリカ政府が差別と貧困へ積極的に介入する仕組みを大幅に広げたこと」

でしょう。

公民権法。

投票権法。

メディケア。

メディケイド。

教育支援。

現在のアメリカ社会へ直接つながっています。

大統領になる前、

電気のない農家で生まれた少年。

貧しいメキシコ系の子どもを教えた教師。

その経験が、

何十年後、

世界最大級の国家予算を使った政策になります。

人生の経験は、

いつ役に立つか分かりません。

まとめ|リンドン・B・ジョンソンとは「歴史的成功と巨大な失敗を同時に残した大統領」

1908年8月27日、テキサス州の電気も水道もない小さな農家に生まれたリンドン・B・ジョンソン。父親の事業失敗による家計の苦しさを経験し、大学時代には貧しいメキシコ系児童を教える教師となりました。そこから政治の世界へ入り、1937年に下院議員、1948年に上院議員となり、やがて民主党上院院内総務として「議会を動かす天才」と呼ばれるほどの力を持つようになります。

1960年にはジョン・F・ケネディの副大統領候補となり、翌1961年に副大統領へ。

そして1963年11月22日。

ケネディ暗殺。

突然アメリカ大統領になりました。

普通なら国家を安定させるだけで精いっぱいでしょう。

しかしジョンソンは議会政治家として培った能力を使い、

1964年公民権法。

1965年投票権法。

メディケア。

メディケイド。

教育支援。

貧困対策。

などを次々実現しました。

一方でベトナム戦争を大幅に拡大。

戦争は長期化し、

多数の犠牲者。

反戦運動。

社会分断。

政府への不信。

を生みました。

そして1968年、大統領選挙への再出馬を断念。

1969年退任。

1973年、64歳で死去しました。

ジョンソンの人生から学べるのは、

「優れた人にも失敗はある」

という単純な話だけではありません。

人間は同じ能力によって成功も失敗もすることがある。

強い決断力。

公民権法を成立させました。

しかしベトナム戦争の拡大にもつながりました。

諦めない性格。

社会改革を実現しました。

しかし撤退すべき戦争を長引かせた面もあります。

自信。

議会を動かしました。

しかし戦争でも「自分なら何とかできる」と考えてしまった。

長所と短所は表裏一体です。

だから歴史上の人物を見るとき、

「善人か悪人か」

だけでは十分ではありません。

何を実現したのか。

なぜ成功したのか。

なぜ失敗したのか。

その両方を見る。

それによって歴史が、

単なる暗記ではなく、

現在の仕事や人生にも役立つ教材になります。

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