どうも、ミギーです。最近、藤井聡太先生が将棋界でよく話題となっていますが、その際に加藤一二三先生のコメントなどを見ることがあります。

まず最初に、大切なお知らせがあります。加藤一二三先生は、2026年1月22日、肺炎のため東京都内の病院で逝去されました。86歳でした。長きにわたり将棋界を牽引し、多くのファンに愛され続けたレジェンドの訃報は、藤井聡太先生をはじめ多くの棋士や将棋ファンに大きな衝撃を与えました。本記事は、そんな加藤一二三先生がどれほどすごい棋士だったのか、そしてどれほど愛すべき人物だったのかを、数々の記録とエピソードを通じて振り返る内容になっています。すでにご存じの方も、今回初めて名前を知った方も、ぜひ最後まで読んで加藤一二三先生の魅力に触れていただければと思います。
目次
- 加藤一二三先生のプロフィール
- 史上最年少記録の数々——藤井聡太先生との深い縁
- 獲得タイトルと通算成績
- 名人獲得までの23年間——不屈の挑戦者
- 生涯を貫いた棋風「加藤棒銀」
- 数々の伝説エピソード(行動編)
- 大食い伝説(食事編)
- 猫好き・敬虔なクリスチャンという素顔
- 意外と知らない私生活とエピソード
- 引退後のテレビ・タレント活動
- 他の棋士からの評価・証言
- 藤井聡太先生との交流と「62歳差対決」
- まとめ:ひふみんが将棋界に残したもの
第1章:加藤一二三先生のプロフィール
加藤一二三(かとう ひふみ)先生は、1940年1月1日、福岡県生まれの将棋棋士です。南口繁一九段門下に入門し、1954年、当時史上最年少となる14歳7ヵ月で四段に昇段。史上初の「中学生棋士」として将棋界に衝撃的なデビューを飾りました。
早稲田大学第二文学部(中退)出身で、以後2017年6月20日に現役を引退するまで、実に62年10ヵ月という長きにわたってプロ棋士として活躍し続けました。この現役生活の長さそのものが、将棋界における一つの大記録となっています。
引退後は「ひふみん」の愛称で親しまれ、バラエティ番組をはじめとした数多くのテレビ番組に出演。将棋界にとどまらず、幅広い世代から愛される国民的キャラクターとして活躍しました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1940年1月1日 |
| 出身地 | 福岡県 |
| 師匠 | 南口繁一九段 |
| 四段昇段 | 1954年(14歳7ヵ月) |
| 引退 | 2017年6月20日(77歳) |
| 現役生活 | 62年10ヵ月 |
| 最終段位 | 九段 |
| 愛称 | ひふみん |
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第2章:史上最年少記録の数々——藤井聡太先生との深い縁
加藤一二三先生の名前を語るうえで欠かせないのが、数々の「史上最年少記録」です。

2-1. 史上最年少・四段昇段記録
1954年、加藤先生は14歳7ヵ月という若さで四段(プロ棋士)に昇段しました。これは当時の史上最年少記録であり、この記録はなんと62年間も破られませんでした。ようやくこの記録を更新したのが、2016年に14歳2ヵ月でプロ入りした藤井聡太先生です。半世紀以上守られ続けた大記録だったことからも、加藤先生がいかに早熟の天才だったかがわかります。
2-2. 史上最年少A級昇級記録(今も破られていない記録)
加藤先生が持つもう一つの大記録が、順位戦最上位クラスである「A級」への最年少昇級記録です。1958年、加藤先生は18歳3ヵ月でA級八段となり、この記録は2024年時点でも破られていない現役記録です。藤井聡太先生をもってしても、この記録だけはまだ更新できていません。まさに「神武以来(じんむこのかた)の天才」と呼ぶにふさわしい、歴史に残る大記録といえるでしょう。
2-3. 「神武以来の天才」の由来
「神武以来の天才」という異名は、加藤先生が異例の速さで数々の記録を打ち立てたことに由来する賛辞です。神武天皇(初代天皇)の時代から現在まで、これほどの天才は現れていない、というほどの最大級の賛辞であり、加藤先生の登場がいかに将棋界に衝撃を与えたかを物語っています。
2-4. 現役最高齢勝利記録
若くしてデビューした加藤先生ですが、記録を打ち立てたのは若い頃だけではありません。2017年1月、77歳0ヵ月で公式戦に勝利し、当時の史上最高齢勝利記録を樹立しました。デビューから引退まで、生涯にわたって記録を残し続けた稀有な棋士だったのです。
第3章:獲得タイトルと通算成績
3-1. 獲得タイトル一覧
加藤一二三先生が現役時代に獲得したタイトルは、合計8期です。内訳は以下の通りです。
| タイトル名 | 獲得期数 |
|---|---|
| 名人 | 1期 |
| 十段 | 3期 |
| 王位 | 1期 |
| 棋王 | 2期 |
| 王将 | 1期 |
| 合計 | 8期 |
タイトル戦への登場回数は合計24回にのぼり、獲得8期は歴代の中でも上位に位置する記録です。5つの異なるタイトル(名人・十段・王位・棋王・王将)を制した実績からも、特定の棋戦だけでなく幅広い舞台で結果を残した実力者だったことがわかります。
3-2. 通算対局成績
62年10ヵ月にわたる現役生活の中で、加藤先生が残した通算成績は次の通りです。
- 通算対局数:2,505局(史上最多)
- 通算勝利数:1,324勝(歴代上位)
- 通算敗戦数:1,180敗(史上最多)
対局数・敗戦数がともに歴代最多というのは、それだけ長く第一線で戦い続けたことの証でもあります。「負けた数」もまた、挑戦し続けた証として語られることが多いのが、加藤先生の記録の面白いところです。
第4章:名人獲得までの23年間——不屈の挑戦者
加藤先生のキャリアの中でも特に語り継がれているのが、名人位獲得までの長い道のりです。
初めて名人戦への挑戦権を得てから、実に23年目にしてようやく名人位を獲得しました。1982年、42歳のときのことです。当時の名人・中原誠先生との激闘の末、持将棋2回・千日手1回を含む10番勝負という異例の長期戦を制しての戴冠でした。
加藤先生は中原先生に対して、当初は大きく負け越していた時期もありましたが、1970年代後半になると徐々に対戦成績を五分に戻し、1976年から1977年にかけての十段戦連続対決、1977年の棋王戦での防衛など、着実に力をつけていきました。そして1979年には中原先生から十段位を奪取。こうした積み重ねの末にたどり着いたのが、1982年の悲願の名人獲得でした。
一度や二度の敗北であきらめず、20年以上にわたって挑戦し続けたその姿勢は、単なる「天才」という言葉だけでは語りきれない、加藤先生の粘り強さと将棋への情熱を物語っています。

第5章:生涯を貫いた棋風「加藤棒銀」
5-1. 「棒銀」を極め続けた男
加藤先生の棋風を語るうえで欠かせないのが「棒銀(ぼうぎん)」という戦法です。居飛車党だった加藤先生は、対局のたびにとにかく棒銀を多用することで知られ、その採用率はプロ棋士の中でも群を抜いていました。「棒銀といえば加藤一二三、加藤一二三といえば棒銀」といわれるほど、この戦法と一体化した存在だったのです。
特に、四間飛車を用いる相手に対して、一般的には居飛車穴熊などで対抗するのが定跡とされる時期でも、加藤先生は変わらず棒銀で挑み続けました。さらに角換わりの将棋でも、多くの棋士が「腰掛け銀」を選ぶ中、加藤先生はここでも棒銀を採用する傾向がありました。
5-2. 「若手に狙い撃ちされている」と言われても
同じ戦法を貫き続けるということは、当然ながら相手にも研究され、対策を立てられやすくなります。実際に、後輩棋士から「若手に狙い撃ちされている」と指摘されたこともあったといいます。しかし加藤先生はそれを気にする様子もなく、あるインタビューでは次のように語っています。
「ここで辞めたら男が廃る。今まで負けてもずっとこだわって棒銀をやってきて、その蓄積によって新しいアイデアが生まれて、こうして戦えるんだから」
対局に負けたときには「棒銀が弱いんじゃない、自分が弱いんです」と語ったこともあり、戦法のせいにせず、あくまで自分自身の実力の問題として受け止める潔さも印象的です。
5-3. 実は理詰めで選んでいた棒銀
一見すると頑固なまでの一本槍に思える棒銀戦法ですが、実際に棋譜を並べてみると、加藤先生は相手の陣形や形をよく見極めたうえで、棒銀が有効だと判断した局面でのみこの戦法を採用していたことがわかります。実際、三間飛車のようにあらかじめ棒銀への対策が講じられている陣形に対しては、棒銀を採用しないという柔軟さも持ち合わせていました。単なるこだわりではなく、合理性に基づいた選択でもあったのです。羽生善治先生をして「不気味ですらある」と言わしめたこの一貫した戦いぶりこそ、加藤先生の棋士としての矜持そのものだったといえるでしょう。
第6章:数々の伝説エピソード(行動編)
加藤先生の魅力は、将棋の実力だけにとどまりません。ここからは、多くのファンに語り継がれている数々の「伝説」を紹介していきます。
5-1. 1分将棋の達人にしてトイレの達人
加藤先生は「1分将棋」(持ち時間を使い切ったあと、1手を1分以内に指し続ける終盤戦)の名手として知られていました。しかし驚くべきことに、この極限状態の中でもトイレに立つことがあったといいます。1分という究極の緊張状態でも動じない胆力の持ち主だったことがうかがえます。
5-2. 「熱い」「寒い」論争
対局中、対戦相手と室温をめぐって「熱い」「寒い」の論争になることがしばしばあったといわれています。三浦弘行先生との一戦では、冷房のオン・オフをめぐる、いわゆる「エアコン戦争」が繰り広げられたことでも有名です。
5-3. 「滝を止めてくれ」事件
米長邦雄先生とのタイトル戦の際、対局場となった旅館の庭にある滝の音が気になった加藤先生は、旅館の責任者に「滝を止めてくれ」と要望したという逸話が残っています。集中力を極限まで研ぎ澄ませていたからこそのエピソードといえるでしょう。
5-4. 座布団の色へのこだわり
対局場の座布団の色にも強いこだわりを持っていたといわれ、特に「モスグリーン」の座布団は闘志が湧かない色として苦手にしていたそうです。ある対局では、優勢だったにもかかわらず座布団の色のせいで集中力が萎え、反則負けを喫してしまったというエピソードも語り継がれています。
5-5. 電気カミソリを次々に買い替える
自宅の引き出しには、使わなくなった電気カミソリが何十個も入っていたという逸話もあります。10日ほど使うと調子が悪くなったと感じ、その都度新しいものに買い替えていたそうです。何事にも独自のこだわりを持つ、加藤先生らしいエピソードです。
5-6. NHK杯での名フレーズ
NHK杯の解説・紹介の中で、「ちょっと行動があれですが、いえかなりアレですが、なんとまぁ名人です」と紹介されたことも語り草になっています。実力と個性を兼ね備えた稀有な存在だったからこそ生まれた名フレーズといえるでしょう。
5-7. 指した後も駒をチョンチョンし続ける癖
対局中、自分の駒はもちろん、相手の駒にも指先で「チョンチョン」と触れ続ける独特の癖があったことでも知られています。あまりに触り続けるため対戦相手が困惑してしまうこともあったそうですが、感想戦(対局後の振り返り)でも、さらには対局がすべて終わったあとでも、ついチョンチョンしてしまうことがあったといわれています。これもまた、集中しているときについ出てしまう、加藤先生ならではの愛すべき癖でした。
5-8. ひふみんアイ
引退後にとりわけ有名になったのが「ひふみんアイ」です。これは対局者の後ろに回り込み、相手側の視点から盤面を眺めるという独特の観戦スタイルのこと。加藤先生いわく、視点を変えることで見えてくる手があるとのことで、将棋に限らず「物事を多角的に見る大切さ」を教えてくれる逸話として、多くの人に親しまれました。
第7章:大食い伝説(食事編)
プロ棋士は長時間の対局で大量のカロリーを消費するため、健啖家(けんたんか)として知られる棋士が少なくありません。中でも加藤先生の「食」にまつわるエピソードは、将棋界屈指の伝説として語り継がれています。
6-1. バナナを房ごと平らげる
対局中に十数本のバナナを、房からもがずにそのまま平らげたという逸話が残っています。長時間の対局を戦い抜くためのエネルギー補給だったのでしょう。
6-2. 板チョコ10枚をボリボリ
おやつとして板チョコを10枚食べたというエピソードも有名です。しかも一枚ずつ丁寧にではなく、数枚まとめてボリボリと食べていたといわれています。1981年に米長邦雄先生と対局した際には、二人揃って大量のみかんを注文し、部屋がみかんの香りで充満してしまったという微笑ましい逸話も残っています。
6-3. 40年間「うな重」一筋
現役時代、対局中の食事はなんと**40年間ほぼ「うな重」**だったといわれています。理由は「何を食べようか悩まなくて済むから」というシンプルなもの。ちなみに昼食はうなぎ2枚の「竹」、夜はうなぎ3枚の「松」を注文するのが定番だったそうです。ここにも、将棋以外のことに余計なエネルギーを使わない、加藤先生ならではの合理性がうかがえます。
6-4. 王位戦での豪快な注文
ある王位戦の昼食では、「寿司、トマトジュース、オレンジジュース、ホットミルク、天ざる」を注文。さらに15時のおやつには「メロン、すいか、ホットミルク3杯、ケーキ、モモ」を追加注文したという記録も残っています。対戦相手の米長邦雄先生もみかんをお盆いっぱいに注文するなど、「おやつ合戦」を繰り広げたものの、この対局では米長先生が将棋にも敗れてしまったという逸話まで語られています。
6-5. 大食いエピソードの極めつけ
晩年のエピソードとして、順位戦の夕食休憩の際に「チキンカツ定食」と「カキフライ定食」の両方を注文し、しかもどちらか片方だけでなく両方を同時に食べていたという話も残っています。高齢になってなお衰えぬ食欲は、加藤先生の体力と頭の回転を支える源だったのかもしれません。

第8章:猫好き・敬虔なクリスチャンという素顔
7-1. 無類の猫好き
加藤先生は無類の猫好きとしても知られていました。近隣の野良猫に自ら餌を与えたり、私財を投じて不妊手術を受けさせたりするなど、猫との関わりは非常に深いものでした。あまりに献身的だったことから、2008年には近隣住人とのトラブルに発展したこともありましたが、それだけ猫たちを大切に思っていたことの表れともいえるでしょう。ブログのタイトルを「ニャンとも言えない一二三伝説」とするなど、晩年もその愛猫家ぶりは健在でした。
7-2. 敬虔なクリスチャン
加藤先生は敬虔なクリスチャンとしても知られており、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から「聖シルベストロ教皇騎士団勲章」を受章しています。将棋という日本の伝統文化に生きながら、キリスト教の信仰を大切にし続けたその生き方も、多くの人に感銘を与えました。
7-3. 数々の栄誉
将棋界での功績に加え、2000年には紫綬褒章を、2022年には文化功労者に選ばれています。さらに2024年には、月刊誌における詰め将棋の連載が65年間続いたことで、「同一雑誌におけるボードゲームパズル作者としての最長キャリア」としてギネス世界記録にも認定されました。棋士としてだけでなく、文化人としても大きな足跡を残した生涯だったといえるでしょう。
第9章:意外と知らない私生活とエピソード
9-1. 中学の同級生だった奥様との絆
加藤先生は20歳のときに結婚され、その後も一度も別れることなく生涯を添い遂げました。実は奥様は中学時代の同級生で、対局のたびに忙しく飛び回っていた加藤先生のために、学校のノートを取ってくれていたのが交際のきっかけだったといわれています。
そのご夫婦の絆を象徴する逸話が、2017年6月の引退の日に残されています。引退が決まったその日、加藤先生は予定されていた引退記者会見をすっぽかし、まっすぐに自宅へ帰って、誰よりも先に奥様へ引退の報告をしたそうです。急遽、当時理事を務めていた鈴木大介先生が代理でお詫びの会見を行うことになったというこの一件も、加藤先生らしい人間味あふれるエピソードとして、今も語り継がれています。
9-2. 「歯抜け」を貫いた理由
加齢とともに歯が抜けていった加藤先生は、周囲の勧めもあって一度は入れ歯(義歯)を作りました。ところが「将棋の勘が鈍り、成績が振るわなくなった」と感じたことから、差し歯を外し、あえて「歯抜け」の状態を保つようになったといいます。あるとき、著名なバイオリニストが入れ歯をやめたところ演奏の調子を取り戻した、という話を耳にしたことがきっかけだったそうで、勝負の世界に生きる人ならではの、独特の感覚を大切にする姿勢がうかがえるエピソードです。
9-3. 将棋会館で棋書を大量購入し、寄付する
加藤先生は将棋会館を訪れるたびに、1階の売店で将棋関連の書籍を数百冊単位で買い込むことがあったといわれています。しかもそれを自分のためだけに使うのではなく、将棋の普及活動の一環として、各地の施設などへ積極的に寄付していました。派手な逸話の裏に、将棋文化を次の世代へ広めたいという静かな情熱があったことがうかがえます。
第10章:引退後のテレビ・タレント活動
10-1. もともとテレビに縁のあった棋士
加藤先生は現役時代から、NHK杯の解説などを通じてすでにテレビとの縁がありました。引退のおよそ5年ほど前からはバラエティ番組への出演も始まっており、引退後はその独特な人物像がさらに注目を集め、地上波テレビはもちろん、インターネット配信やイベントへの出演も含めて、活動の幅を大きく広げていきました。
10-2. 「ひふみん」ブームの到来
2017年7月には芸能事務所ワタナベエンターテインメントとマネジメント契約を結び、本格的にタレントとしての活動をスタート。フジテレビの人気バラエティ番組『アウト×デラックス』では、事あるごとにクイズを出したがる棋士として親しまれるなど、将棋ファン以外の層からも絶大な人気を獲得しました。純粋無垢な人柄がにじみ出る言動の数々は「加藤一二三伝説」としてたびたび話題となり、そのキャラクターに魅了される人が後を絶ちませんでした。また、『痛快TV スカッとジャパン』では、若かりし頃の風貌が俳優の菅田将暉さんに似ていると紹介されたこともあります。
10-3. 晩年もSNSを積極活用
高齢になってからもTwitter(現X)を使いこなし、頻繁に自ら情報発信を続けていたことも、加藤先生らしいエピソードの一つです。2023年には秋の園遊会に招待されるなど、将棋界の枠を超えた「国民的キャラクター」として、最晩年まで幅広い世代に愛され続けました。
第11章:他の棋士からの評価・証言
加藤先生の実力と人柄は、同時代を戦ったライバルたちの言葉からもうかがい知ることができます。
米長邦雄先生 「将棋を極めるところまでいけるのはやはり加藤さんだろうと思う」
飯塚祐紀先生 「加藤一二三先生は秒読みになって間違えないから本当に強い」
中原誠先生 「加藤さんは、長考している時は何も読んでいないけど、1分になるとものすごく読んでいるんだ」
羽生善治先生 「あそこまで同じ戦法を貫かれると不気味ですらある。普通は研究され対策されることを考えると、一つの戦法を取り続けることは、行き方の一つではあれ、現実に実行する人はほとんどいない。しかし加藤先生に限っては、まったくそれを恐れていないようだ」
現役時代の加藤先生は、長年にわたって「棒銀戦法」を貫き続けたことでも知られています。相手に研究され尽くしていることがわかっていても、自分のスタイルを変えない——その一貫した姿勢こそが、多くの一流棋士たちから畏敬の念を持って語られる理由なのです。
第12章:藤井聡太先生との交流と「62歳差対決」
9-1. 話題を呼んだデビュー戦
2016年12月24日、当時14歳の藤井聡太四段(当時)のプロデビュー戦の相手を務めたのが、当時76歳の加藤一二三先生でした。年齢差62歳という前代未聞のカードは「62歳差対決」として大きな話題を呼び、将棋ファンのみならず多くのメディアに取り上げられました。結果は加藤先生の敗北となりましたが、この一戦は将棋界の世代交代を象徴する歴史的な対局として語り継がれています。
9-2. 記録を破られた喜び
加藤先生が63年間守り続けた「史上最年少棋士」の記録を、藤井先生が14歳2ヵ月で更新した際、加藤先生は「昔の自分に、史上最年少記録を破る少年が63年後に現れると教えてあげたい!」と、記録を破られたことを心から喜ぶコメントを残しています。自らの大記録を更新されてなお、後進の才能を素直に称える——そのおおらかな人柄がにじみ出るエピソードです。
9-3. 惜しみない称賛
2020年、藤井先生が異例の若さでタイトルを獲得した際にも、加藤先生は「その天賦の才を余すところなく発揮し、天高く翔ける龍となり、将棋という芸術文化の大輪の花を咲かせていただきたい」という、詩的で温かいメッセージを送っています。
9-4. 藤井先生からの追悼
2026年1月の訃報に際し、藤井聡太竜王名人は次のような追悼コメントを寄せています。
「この度の訃報に大変驚いておりますが、安らかに天に召されられたことと思います。長きにわたり将棋界を代表する棋士としてご活躍されたことに深く敬意を表するとともに、信念を貫く姿勢を直に学ばせていただいたことに改めて感謝を申し上げます。心より平安をお祈りしております」
同年6月6日には東京・渋谷の将棋会館で「お別れの会」が開かれ、藤井先生をはじめ多くの棋士や将棋ファンが献花に訪れ、加藤先生の功績を偲びました。

第13章:まとめ:ひふみんが将棋界に残したもの
加藤一二三先生は、14歳7ヵ月での中学生棋士デビューから77歳での引退まで、62年10ヵ月という誰も真似できない長さの現役生活を全うしました。5つのタイトルを合計8期獲得し、通算2,505局という史上最多対局数を記録するなど、その実績はまさに「神武以来の天才」の名にふさわしいものでした。
しかしそれ以上に、加藤先生が多くの人に愛された理由は、その人柄にあったのではないでしょうか。座布団の色や食事へのこだわり、猫への深い愛情、そして何より「チョンチョン」に代表される数々の愛すべき癖——完璧な天才であると同時に、どこか憎めない、人間味あふれる姿が、世代を超えて多くのファンの心をつかみました。
そして最後まで貫かれたのは、後進を素直に称える心の広さでした。63年間守った自らの記録を藤井聡太先生に破られてなお、心から喜びを表現したその姿は、勝負の世界に生きながらも、常に将棋そのものへの愛情を忘れなかった証といえるでしょう。
2026年1月22日、86歳でその生涯を閉じられた加藤一二三先生。将棋界のレジェンドが遺した記録と、数え切れないほどの温かいエピソードは、これからも長く語り継がれていくことでしょう。改めて、心よりご冥福をお祈りいたします。

加藤一二三先生のこと、少し詳しくなれた気がするよ。ミギー、教えてくれてありがとう。
※本記事は各種公表資料・報道等をもとに作成しています。記録や成績は執筆時点の情報であり、今後の資料等により表記が異なる場合があります。




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